1987年 つくばサーキット4位

このレースは、レース中盤まで、セカンドグループで、練習で走っていた中山サーキットで速かった2人ががトップ争いをしていた。

終盤、トップが転倒してそれに巻き込まれ2位も転倒。

セカンドグループを走っていた私たちのグループがトップ争いとなった。

しかし、私は残念ながら表彰台に登れずの4位。

 

鈴鹿サーキット

 このレースは、レース前にこの時のスポンサー(キタコ)さんからの要望で、岐阜のミニバイクコースで耐久レースがあって、出てくれと。

行きに4時間、帰りに4時間。

土曜日予選。

予選は雨で、車体はRS125、エンジンは50CCというバイク。

予選終了して2位。

キタコのスタッフに怒られたな(^^)

「お前国際A級やろ、なんでポールとれへんのや」と。

車体がRS125、ブレーキのそのままだから、ブレーキが効きすぎて、スピードが落ちすぎてしまっていた。

まあ、私のメインレースではないから怪我だけしない程度にと思って走っていたし。

決勝、

また4時間かけて現地に着いた。

そしたらなぜかポールになっていた。(^^)

耐久レース、順調に走っていたら、転倒。

しかも、ストレートでスリップに入っていて、前のライダーが左に振ったかと思ったら、ライダーの背中があった(転倒したライダーがストレートにいて、私の方に背中を向けた形で座っていた)。

私は、もろにそのライダーの背中に当たっていった。

で、転倒。

そこから燃料タンクから燃料が漏れて・・・・

そこはなぜか?FRPの燃料タンクだったから割れて、漏れだした。

また、避けられんかったんかと怒られたが、さすがにこれに関しては言い返した。

この時、アライヘルメットに傷がついてしまった。

このレース後で知ったんですが、そのあとGPとかに来たライダーや全日本で活躍したライダーがまだ小学生くらいで走っていたとか(^^)

 

 

そして、鈴鹿サーキットのレース

 レースウイーク入ったときに、状況を説明して、ヘルメットを見てもらったら、表面の塗装がはがれただけだから、大丈夫と。

予選は何位だった?との問いに16位ですと。

ならそのままで行こうかと。

わかりましたと。

決勝。

朝のスタート前チェックぎりぎりまでエンジンかからず、いろんな人が教えてくれて、ピックアップコイルを交換したらエンジンがかかったので暖気せずに、スタート前チェックをすまし、暖気もせずにそのまま、コースイン。

私の中では、もうレースには出れないと思っていたから、エンジンが、かかっただけで儲けもんだと。

何も考えずに、ひたすら走ることだけを考えていたら、プレッシャーよりもただひたすら走ることだけを考えていたら、レースレコード更新しながら、2位にストレート半分くらい離していた。

しかし、ラスト2周くらいからマフラーにクラックが入ってきたのが分かったくらい、ストレートが遅くなって、後ろとの距離が詰まってきたがなんとか1位を死守した。

レース後アライヘルメットに行くと、担当が、まさか16位からトップ取るとは思わんかったと。

雑誌には、しっかり傷のついたヘルメットがしっかり移っている状態で乗っていた(^^)

 

SUGOサーキット

ここは今のコースにレイアウトになって初めて走るコース。

そして、ここのサーキットで初めてダンロップから、リアタイヤだけだけど、テストしてみる?と声をかけてもらえて、使うことに。

初めてのコースなので、木曜日の練習から走ったと思う。

そのリアタイヤをはめて、コースを走りながらコースを覚えていった。

金曜日のスポーツ走行。

同じリアタイヤを出してもらえた。

そしたら木曜日30分2本走っても問題なかったタイヤが、金曜日、タイムも上がってきたこともあって、最初の30分は、まったく問題なかったが、2本目の30分の残り10分のところでリアタイヤが跳ねだした。

土曜日の予選。

この時の全日本は予選が2本あった。

普段なら予選で2セット、決勝で1セットを使うが、あと2本しかないと・・・・

なので予選は2回の予選を1本で、決勝は新品で行こうと決める。

2本目の予選のラストラップあたり。ストレートで前のライダーを裏のストレートまでに抜き、下って行っての右コーナーでフロントからスリップダウン。

私が抜いたライダーがそのまま、ゴールしてポールだった。(^^)

 

決勝。

スタートして、中盤、私が7,8番手あたりを走行していたら、少し離れて前にいたライダーが、最終から登っていくストレートで、前のライダーがスリップに入られるのを嫌ったのか、左右にバイクを振った。

その時、後ろのライダーのフロントタイヤが当たって、転倒しそうになっていた。

私は、サインボードも見ずにひたすら、前のライダーを抜くことばかり考えて、ようやく落ち着いて、あと前は1人。

私もあてられるのを嫌って(前に走っていたライダーは当てられたライダー)スリップに入らず、コースの真ん中あたりを走って登り切ったときに、サインボードを見ようとしたら、チェッカーが振っていた。すごくラッキーでした(^^)

この時使っていたリアタイヤは、どうも普段テストしているライダーの人たちが125には合わないと、ダメ出ししたタイヤみたいで。(^^)

でも私は、よかったな(^^)

レース中、前を走っていたライダーが最終コーナー立ち上がりでリアタイヤが跳ねた。

その時、跳ねた。これで加速が悪くなってストレートで抜ける。

と思ったら私も跳ねた。

でも、前のライダーは4回ほど跳ねたが私は1回で済んだ。

それのおかげで、ストレートで抜くことができた。

 

このレースは、記録的に残ってないですが、決勝中にレコードタイムを更新していました。

 

 

次のつくばがおわったあたりで、1988年のGPの監督をしていた福田さんから、「ランキング1位と2位をGPに行く話があって、もし入ったら高田はどうする?」と話があった。

それまでは、雑誌の世界だけかと思った。

私は最終的には、レースで飯を食べたかった。

正直、この話があってから、250で乗らないかとか、125で移籍してこないかとか、年収これくらい出すから来ないかと話がいろいろとあった。

しかし、GPはそうなかなか行けるチャンスはないし。GPを経験して全日本に帰ってきたら、国内で走れるチャンスはあるだろうと。

それよりも、私の走りを向上させるにはGPは最高に場所だと思うし、挑戦するにはもってこいだと思った。

 

GPの話を聞いてからはプレッシャーか、行きたいと思う思いが強かったのか、次の鈴鹿は、え?いうパーツでリタイヤをしてしまった。

 

なので、最終戦のつくばは私は、GP行けるチャンスはないかなと・・・

 

 

最終戦のつくばは、決勝、どんなレースをしていたかはあまり覚えてないのだけど、3位になって表彰台で、3位になれた喜びよりも、ランキングが何位になったのかが気が気ではなかった。

表彰台下にいた、記者の人にランキング2位と教えてもらえてからは、かなりはしゃいだ記憶がある。

 

この時、1周オープンカーで回ってくるのですが、1周回って、パドックに帰ってきたときに横にいた向井選手に「チャンピオンの畝本さんを最終コーナーの池に落とそうか」と話しかけたら、面白いなと(^^)

畝本さんを、話くるめて、最終コーナーまで連れて行って、落とした(^^)

GPではステーデンGPでチャンピオンになったらプールに落とされるとの儀式をまねて落としたんだけどね(^^)

 

この後、竹島さん、泉さん、福田さんと私、畝本さんでGPの話をしようと集まったけど・・・・

体制が考えていたものと違ってきて、状況が・・・・

話を聞いていくと、途中、「あれ?これはGPに行けないのかな」と考えていったら、思った体制ではないけど、少人数でやりくりすれば行けると。

なんだ(^^)よかった。

と。